ネット大喜利で思うこと
2011年 05月 29日
昨今のネット大喜利界では
NGワードなるものを公言される方がいます。
それは過去のボケで多く使われた言葉であり、
そのワードが入っているだけで点数をつけないというものです。
僕はその考えには疑問を持っていて、
確かに使い古されたワードやフレーズを見ると
「あらまあ」と思うこともありますが、
要は使い方だと思うんです。
その考え方だとNGワードが増え続け、
究極的には自分で言語を作るハメになります。
さらに「多く使われた」と感じるのは
個人のボケ摂取量に依存するものであり、
なんら普遍性を持つものではありません。
そもそもなぜ使い古されたかと言えば
それらの言葉に多くの人が面白みを感じて使ったからです
毎日何十、下手すれば何百という
ボケを見る者の目線からすれば見飽きたものかもしれませんが、
普通の人から見れば十分面白いと感じられるものだと思います。
逆にネット大喜利界で面白いとされるものが
一般の感覚からズレていることも事実としてあると思います。
大喜利が芸術ではなく娯楽であるためにも、
あまり一般の感覚から乖離するのはいかがなものかと思います。
文学のように廃れて欲しくないですからね。
NGワードなるものを公言される方がいます。
それは過去のボケで多く使われた言葉であり、
そのワードが入っているだけで点数をつけないというものです。
僕はその考えには疑問を持っていて、
確かに使い古されたワードやフレーズを見ると
「あらまあ」と思うこともありますが、
要は使い方だと思うんです。
その考え方だとNGワードが増え続け、
究極的には自分で言語を作るハメになります。
さらに「多く使われた」と感じるのは
個人のボケ摂取量に依存するものであり、
なんら普遍性を持つものではありません。
そもそもなぜ使い古されたかと言えば
それらの言葉に多くの人が面白みを感じて使ったからです
毎日何十、下手すれば何百という
ボケを見る者の目線からすれば見飽きたものかもしれませんが、
普通の人から見れば十分面白いと感じられるものだと思います。
逆にネット大喜利界で面白いとされるものが
一般の感覚からズレていることも事実としてあると思います。
大喜利が芸術ではなく娯楽であるためにも、
あまり一般の感覚から乖離するのはいかがなものかと思います。
文学のように廃れて欲しくないですからね。
by mujyuuryoku
| 2011-05-29 15:02
| 大喜利